観勢寺の挑戦~親鸞聖人の教えが説かれるお寺へ

 北陸の静かな田園地帯に建つ小さなお寺が今、全国の注目を集めています。その寺の名前は「観勢寺」。江戸時代から続く、由緒ある浄土真宗の寺院です。なぜ、観勢寺は注目されているのでしょうか。丹念に調べてみると、そこには仏教界を取り巻く深刻な状況がありました。寺院存亡の危機の中で、本来の寺の姿を取り戻そうと模索する観勢寺の「挑戦」を追ってみました。



 ■にぎわいを取り戻しつつある観勢寺


  雄大な立山連峰の麓に位置する「浄土真宗観勢寺」(富山県中新川郡上市町)は、北陸自動車道・立山インターから車で5分、県道3号線沿いの静かな田園地帯に建つ小さなお寺。昨年11月から、この観勢寺を切り盛りしているのが、立山町出身の住職・内野清美さんです。

 「毎朝5時に起床して、内陣のお掃除、お仏飯をお供えして、本堂で勤行をするのが日課です。冬の本堂は半端でない寒さでした。皆さんも一度、体験してみませんか」

と笑顔で語る住職に、最近のお寺の様子を聞くと、 

「週に1回、講師を招待して法話を開いています。また食事会や季節のイベントなども、定例で開催していきたいと思っています。若い人や外国人観光客の方が、ふらりと拝観に訪れたり、どんな出会いがあるか毎日わくわくします。皆さんもぜひお参りください」。

  ガーデニングが趣味という内野住職は、観勢寺の周りに、かわいらしい花々を植え始めていました。「訪れた人に楽しんでもらえるよう、お寺の周りを花でいっぱいにしたいんです」


  厳しい冬を乗り越え、法の花咲くにぎわいを取り戻しつつある観勢寺ですが、1年半前までは、文字通り「廃寺寸前」でした。


 ■存続か廃寺か。観勢寺の選択


  近年、葬儀や墓の管理までも寺離れが進み、寺院運営が立ち行かなくなっている現状がNHKなどでもクローズアップされるようになりました。今、全国の少なからぬ寺院が、存続か廃寺かの決断を迫られているといっても過言ではないでしょう。過疎地ばかりではないようです。『中外日報』によれば、昨年4月、浄土真宗本願寺派の総長の談話として「専業で護持・維持できる寺院はいずれ3分の1になる。(中略)寺も僧侶も選ばれ、あるいは捨てられる時代の到来だ」と危機感をつのらせたと報じられています。

  その例にもれず、観勢寺も、存続の危機の中にありました。前住職は打開の糸口を求めて、本山をはじめNPO法人などにも相談しましたが全て断られてしまいました。「もう廃寺にするしかないのか」。しかし廃寺といっても簡単ではありません。本堂の解体費用が捻出できなければ廃寺しようにもできないのが実情。何より、江戸時代から続いてきた寺を自分の代で廃寺にすることは、苦渋の決断でもあります。

  考え抜いた末、前住職は高校時代の先輩が講師になっていた「浄土真宗親鸞会」の門をたたきました。浄土真宗親鸞会は、富山県を中心に全国で親鸞聖人の教えを熱心に伝えている集まりです。親鸞会へ帰属したいとの前住職の申し出に対して、親鸞会は仏法者として布施されたものは受けるのが原則ということから、その申し出を受け入れました。

  近隣住民との協議の末、観勢寺は平成28年5月20日に親鸞会への帰属を正式に決め、6月13日に引き渡されました。その後、大幅な改修を経て、現在の観勢寺に生まれ変わったのです。前住職の選択、それは廃寺ではなく、親鸞聖人の教えが説かれる寺への新生でした。


 ■観勢寺の選択の波紋


  このニュースは『中外日報』にも大きく報じられました。一部メディアでは、この出来事をセンセーショナルに取り上げ、「寺が新宗教に乗っ取られた」というとらえ方をする記事もありました。しかし、上述の経緯を知れば、それが事実と全くあべこべであることは明らかでしょう。くだんの『中外日報』でも、観勢寺の元住職の談話として「東西両本願寺とは違い、浄土真宗の教えを伝えることに非常に熱心な教団であることは以前から知っており、親鸞会に(法人譲渡の)話をさせていただいた」と語ったことを伝えています。

  また、同紙は「過疎地域を中心に寺院の解散による財産処分に苦慮するケースは多く、『人ごとではない』と事情を知る関係者に波紋が広がっている」と結んでいます。

  これが契機となってかどうかは分かりませんが、今年に入り、『毎日新聞』(平成29年4月25日)には「浄土真宗本願寺派 過疎地の寺を本格支援」との記事が掲載されました。本山から支援員を配置し、廃寺の手続きや解散申請などを円滑に執り行う予定としています。

  ここで改めて、観勢寺の選択は、どこが際立っているのか、ということをまとめておきたいと思います。それは住職が「廃寺」ではなく「親鸞聖人の教えが説かれる寺への新生」を願い、それを実現するため決断し行動した、という点でしょう。もし廃寺にするなら、おそらくニュースにならなかったはずです。しかし廃寺ではなく存続を願い、泥まみれになりながらあがき、険しい道を切り拓いたところに、胸揺さぶられるのではないでしょうか。それは800年前、悩める人々の幸せを念じて「ただ仏恩の深きことを念じて人倫の哢言を恥じず」とひたすら真実の仏法を伝え続けられた親鸞聖人の精神を彷彿とさせられます。


 ■お寺に期待されていることとは?


  そもそも、お寺はどのようにして生まれたのでしょうか。浄土真宗の歴史を振り返ると、大きな門徒寺も、最初は小さな道場から始まった例が多いようです。

  500年前の蓮如上人の時代、各地の浄土真宗の広がりは、簡素な「内道場」から始まりました。村の有力者が自宅の一部を改装して作った聞法道場がその原型といわれます。

  よく知られている赤尾の道宗も、蓮如上人のお弟子となるや、五箇山(富山県)に道場を興して布教を始めました(1446年)。年に2、3回上洛し、短い時でも1カ月、長い時は3、4カ月も滞在して蓮如上人のご説法をお聞きしたといいます。故郷に戻っても、家にいるのは1、2日で、すぐさま布教に出発。道宗の活動範囲は遠く加賀国(石川県)にも及びました。なかなか熱心にならない門徒に蓮如上人のじかのお言葉を聞かせたいと、『御文章』のご下附を何度もお願いしたことも書き残されています。

  そんな道宗のタネまきが実を結び、永正10年(1513)、参詣者が増えたと推測される彼の道場は、寺に昇格し、行徳寺となりました。それによって講の活動も一層、盛んになったのでしょう。五箇山では数十戸に1軒の割合で道場が建つようになり、瑞願寺、光明寺、称名寺と寺になる所が次々現れました。越中(富山県)でも有数の真宗の強信地帯となったのです。

  今日、各地にある浄土真宗のお寺も、親鸞聖人の教えをお聞きしたいと、私たちの祖先が熱い志によって建立したものばかり。お寺とは、親鸞聖人の教えが説かれる場所であり、それが本来のお寺の存在理由です。 「でも、それは昔の話だろう」と思う方もあるかもしれませんが、昨年12月に一般社団法人「お寺の未来」が実施した「寺院・僧侶に関する生活者の意識調査」の中に興味深いデータがありました。この調査は、全国の20歳から79歳の男女10,000名にとったアンケートで、仏事に関する一般の人の意識や、僧侶にどんな悩みを聞いてほしいか、などを調査したものです。

  その中に「寺院・僧侶への期待」(問:あなたは、お寺やお坊さんに特にどのような点を期待されていますか?)という項目があり、その第1位は「仏教の教えの伝承・説法」でした。現代の人も、お寺や僧侶に仏教の教えを説いて聞かせてほしい、と期待していることが分かったのです。


 ■親鸞聖人の教えが説かれるお寺へ。観勢寺の挑戦


  前住職の願いを受け、観勢寺では今、週に1回、講師を招待しての法話会が開かれています。また地域に愛されるお寺を目指して、皆さんの灯りとなりたいと内野住職は語ります。観勢寺の挑戦はまだ始まったばかりです。しかし、お寺が本来の役割を果たしていくならば、きっと未来は明るく開かれるに違いありません。